訪問看護

朝ドラ『風、薫る』の派出看護婦会は、訪問看護ステーションの前身だった——127年前に家庭へ看護師を送る仕組みがあった

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朝ドラ『風、薫る』の派出看護婦会は、訪問看護ステーションの前身だった——127年前に家庭へ看護師を送る仕組みがあった

Summary

NHK連続テレビ小説『風、薫る』が描く派出看護婦会は、病院から独立した組織が家庭に看護師を派遣する仕組みでした。訪問看護ステーションの前身と位置づけられています。大関和が『派出看護婦心得』を出したのは1899年。127年前です。この仕組みはなぜ消え、なぜ1992年まで訪問看護の制度化を待つことになったのか。そして、当時の課題のいくつかは、いまも残っています。

目次6項目
  1. 01何をしていたのか
  2. 02なぜ消えたのか
  3. 03看護と家事の混同
  4. 041992年までの空白
  5. 05私的経営という共通点
  6. 06127年後に残っている課題

NHKの連続テレビ小説『風、薫る』が、2026年3月30日から放送されています。

モデルは大関和と鈴木雅。日本で最も早い時期に正規の訓練を受けた看護婦です。原案は田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』。主人公の一ノ瀬りんを見上愛さん、大家直美を上坂樹里さんが演じています。

ドラマの中で、二人は派出看護婦会を運営します。

派出看護婦会とは、家庭や病院に看護婦を派遣する、病院から独立した組織のことです。看護婦による私的経営で、派出料金を会則で定め、患者との個人契約で自宅や病院において看護を行いました。

病院から独立した組織が、家庭に看護師を送る。訪問看護ステーションと同じ構造です。実際、看護史研究会は派出看護婦会を「現代の訪問看護ステーションの前身ともいえる」と位置づけています。

大関和が『派出看護婦心得』を出版したのは1899年、明治32年です。127年前になります。

何をしていたのか

鈴木雅が日本で最初の派出看護婦会「慈善看護婦会」を開業したのは1891年とされています。後の東京看護婦会です。

料金は4等級に分かれ、貧困者には無料で看護が提供されました。富裕層だけでなく庶民にも看護を届けるという設計です。

大関和は、上流階級が自宅療養を基本としていた時代に、多くの依頼を受けています。鷹司侯爵夫人とその子息のチフス看護、徳大寺侯爵の肺炎看護、大臣夫人の看護。感染症が蔓延し、伝染病が恐れられていた時代に患者のもとへ駆けつけ、派出看護という分野を確立しました。赤痢の隔離所での集団看護にも尽力しています。

感染対策の記録も残っています。鈴木雅は派出先で、患者の家それぞれのルールを重んじながら、隔離、換気、食べ残しの廃棄を実施しました。看護婦自身を守るため、白衣を毎日着替えてアイロンをかけることを徹底させたといいます。

患者の家それぞれのルールを重んじながら、という部分に目が留まります。他人の家に入り、その家のやり方を尊重しながら医療を行う。当メディアで在宅の感染対策や残薬の確認を扱った際に書いたことと、127年前の記録が重なります。

なぜ消えたのか

派出看護婦会は数を増やしましたが、戦後にかけて歴史的役割を終えます。

同志社大学の山下麻衣教授は『「看護婦」の近代社会史』で、衰退の一因として教育の差を挙げています。資格制度ができた後、指定看護婦養成所を数年かけて卒業した看護婦と、養成所を経ずに検定試験の合格だけで働く派出看護婦との間で、知識の差が広がっていきました。

派出看護婦会が都市部に急増し、質の低い事業所が増えたという指摘もあります。1930年以降の世界的な不景気の影響も重なりました。

そして、派出看護婦は家政婦という呼称で知られる「派出婦」に取って代わられていきます。

看護と家事の混同

鈴木雅が明治期に問題視していたことがあります。看護婦の仕事と家政婦の仕事の混同です。派出先で家事まで押しつけられる、という問題でした。

この問題は戦後になっても解消されませんでした。病院では、患者が自費で派出看護婦を雇う付き添い看護が長く続きます。

制度の経緯も残っています。1948年に職業安定法施行規則が改正され、有料職業紹介事業の対象職種に看護婦が追加されました。それ以降、有料職業紹介事業として付添看護婦という職種が確立していきます。1950年には家政婦も対象職種に追加され、看護婦・家政婦紹介所として経営されることがほとんどでした。そこでいう看護婦とは、もっぱら付添看護婦のことだったとされています。

ここは、現在の議論と直接つながります。当メディアで扱ったとおり、2026年度の診療報酬改定では、高齢者向け住まいに入居者を紹介する有料職業紹介が禁止されました。訪問看護ステーションが有料職業紹介事業者に支払う手数料の負担も、千葉県看護協会の調査で確保の課題の第2位に挙がっています。61.5%の事業所が、紹介料の負担が大きいと回答しました。

看護職と有料職業紹介の関係は、1948年に始まって現在まで続いています。

1992年までの空白

派出看護婦会が衰退してから、訪問看護が制度として整うまでには時間がかかりました。

1971年に東京都東村山市が寝たきりの高齢者を対象に訪問看護を開始。1974年には新宿区が訪問看護を始め、板橋区に訪問看護室が設置されるなど、自治体の取り組みとして広がり始めます。

1983年、病院を退院した患者への訪問看護が初めて診療報酬の対象になりました。

1991年に老人訪問看護制度が発足し、翌1992年に老人訪問看護ステーションが始まります。1994年には健康保険による指定訪問看護が制度化され、高齢者に限らず幅広い世代が訪問看護を受けられるようになりました。

当メディアで訪問看護制度の35年を扱った記事は、ここを起点にしています。ただ、家庭に看護師を送る仕組みそのものは、その100年前に存在していました。

私的経営という共通点

派出看護婦会と現在の訪問看護ステーションには、もう一つ共通点があります。

派出看護婦会は看護婦による私的経営でした。料金を自分たちで定め、患者と個人契約を結びました。

訪問看護ステーションも、看護師が指定を受けて開設できる事業です。当メディアで扱った査読論文では、自ら起業して管理者になった看護師10人が、運営資金の確保と事務管理に困難を抱えていたことが示されています。看護の経験と経営の知識は別物だという問題です。

違いは価格です。派出看護婦会は料金を自分で決められましたが、訪問看護は公定価格です。原材料が上がっても単価を変えられません。

明治の看護婦会が質の低下によって信用を失ったのに対し、現在は報酬と基準によって質が管理されています。管理の方法が、市場から制度に移ったということになります。

127年後に残っている課題

大関と鈴木が向き合った問題のうち、いくつかは形を変えて残っています。

看護婦の教育水準のばらつき。当メディアで既卒看護師の教育を扱った際、独り立ちまでの同行訪問の設計が事業所ごとに違うことを書きました。訪問看護に必要な技術を保証する資格は、いまもありません。

看護と家事の境界。訪問看護の現場で、利用者や家族から本来の業務を超えた依頼を受けることは珍しくありません。

紹介事業との関係。1948年に有料職業紹介の対象になって以来、看護職の採用は紹介事業と切り離せない構造にあります。

そして、家に入るという仕事の性質そのもの。患者の家それぞれのルールを重んじながら看護を行うという、鈴木雅が書き残した姿勢は、いまの訪問看護師の日常と変わりません。

ドラマは明治を描いていますが、そこにある問題は現在のものでもあります。

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執筆者

HokanPress編集部

医療・看護・介護の多職種チーム

訪問看護・在宅医療の現場に携わる多職種チーム

HokanPress編集部は、訪問看護・在宅医療の現場に実際に携わる多職種チームで構成されています。看護師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、医療ソーシャルワーカー、管理栄養士、介護支援専門員(ケアマネジャー)が所属。それぞれの専門分野で培った臨床経験と専門知識をもとに、医療・看護・介護従事者の実務に役立つ情報を発信しています。記事は必ず該当分野の有資格者が執筆または監修し、公的統計データや学会発表・厚生労働省の公表資料など、信頼性の高い情報源に基づいて作成しています。

保有資格: 看護師 / 理学療法士 / 作業療法士 / 言語聴覚士 / 医療ソーシャルワーカー / 管理栄養士 / 介護支援専門員

※本記事は公的統計データをもとに看護師資格保有者が執筆しています

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