公益財団法人日本医療機能評価機構の集計によると、2025年の医療事故は6,118件、ヒヤリハットの事例は117万件を超えました。医療安全への関心が、改めて高まっています。
ただし、報告の多くは、病院からのものです。では、利用者の家に、多くは一人で入り、その場で処置や判断を行う訪問看護には、どのような安全上のリスクがあるのでしょうか。そこには、病院とは違う、訪問看護ならではの難しさがあります。
今回は、訪問看護の医療安全について、起こりやすい事故と、その防ぎ方を、整理してお届けします。
医療安全の世界では、アクシデント、インシデント、ヒヤリハットという言葉を使います。それぞれの意味を、確認しておきましょう。
アクシデントは、いわゆる医療事故で、すでに利用者に損害が発生してしまったものを指します。インシデントは、誤った行為が実施される前に発見されたもの、または実施されたけれど利用者に影響がなかったものです。そして、ヒヤリハットは、その一歩手前。「ヒヤリ」としたり「はっと」したりして、事故につながる状況に気づき、未然に回避できた事例を指します。
ここで、大切な考え方があります。ハインリッヒの法則です。1件の重大な事故の背後には、29の軽微な事故と、300のヒヤリハットが隠れているとされます。日々の小さな「ヒヤリ」を見過ごさず、拾い上げて対策すること。それが、重大な事故を防ぐための、いちばんの近道になります。
訪問看護の安全を考えるうえで、病院とは違う、固有の難しさを、押さえておく必要があります。
一つ目は、一人であることです。訪問先には、基本的に一人で入ります。処置をするのも、判断するのも、一人。病院なら、その場で同僚にダブルチェックを頼めますが、在宅では、それができません。
二つ目は、環境が整っていないことです。家には、病院のような設備がありません。手すりがない、床に物が多い、照明が暗い。整えられていない生活の場で、ケアを行うことになります。
三つ目は、利用者が自分で薬を管理していることです。複数の薬を、利用者やご家族が、自宅で管理しています。飲み間違いや、飲み忘れが、起こりやすい環境です。
こうした条件のもとで、訪問看護の安全は、守られなければなりません。
訪問看護で、とりわけ重大なのが、薬に関する事故です。
在宅では、複数の薬を同時に管理することが多く、慎重な確認が欠かせません。実際に、持参した薬の確認を怠り、異なる薬を投与してしまった結果、利用者が集中治療を要する状態に陥った事例も、報告されています。
ここで、再発防止について、大切な視点をお伝えします。誤薬が起きると、つい「ダブルチェックを徹底しましょう」という結論で終わりがちです。しかし、本当の問題は、確認する人の不注意ではなく、「確認しにくい流れ」にあることが多いのです。たとえば、配薬の途中で別の対応に呼ばれて中断し、戻ったときに取り違えてしまう。個人の注意力に頼るのではなく、中断が起こる前提で、薬の置き場所や、氏名の表示、確認の手順そのものを設計し直す。ミスは、個人の問題である以上に、仕組みの問題なのです。
在宅での転倒は、重大な骨折につながりやすい、身近なリスクです。
ある事例では、歩行に補助が必要な高齢の利用者が、トイレへ移動する途中で転倒し、大腿骨を骨折しました。原因は、歩行補助具の調整が不十分だったことと、手すりの安全確認が足りなかったことでした。
転倒は、歩いている最中に起きると思われがちです。ですが実際には、その少し前から始まっています。「急いでトイレに行きたい」という焦り、強い眠気、いつもと違う履き物、立ち上がったときの一瞬のふらつき。歩く能力そのものよりも、立ち上がる前の数秒を、丁寧に見ることが大切です。あわせて、手すりや床の状態、部屋の動線といった、家の環境を整えていく。転倒対策は、介助の技術だけでなく、その人の状態と環境の両方を見ることから、始まります。
医療的なケアに伴う事故も、見過ごせません。
人工呼吸器、在宅酸素、吸引器といった医療機器。そして、点滴やカテーテルのチューブ類。以前の記事で取り上げた在宅酸素と火気のように、扱いを誤れば、命に関わる事故につながります。
こうした機器やチューブの事故は、適切な使い方を手順として決めていない、あるいは、決めた手順どおりに実施していないことから起こる場合が、多くあります。だからこそ、機器ごとの手順を明確にし、それを確実に守る。そして、異常が起きたときに、誰に、どのように連絡するのかまで、あらかじめ決めておくことが欠かせません。
ここまで見てきて、共通する教訓が浮かびます。事故を防ぐ鍵は、個人の注意力ではなく、組織の仕組みにある、ということです。
「気をつけます」で終わらせない。起きたヒヤリハットを、報告書として記録する。多忙のなかで軽視されがちですが、この報告には、明確な目的があります。原因を分析すること。再発の防止策を立てること。そして、その情報を、事業所の全員で共有することです。
集まった事例を、傾向として分析し、環境の整備や、機器の活用、一人ひとりのケア計画に反映していく。そして、その効果を確かめる。この繰り返しが、事業所全体の安全を、少しずつ高めていきます。個人を責めるのではなく、仕組みを直す。そうした文化が根づいた事業所ほど、事故が少ないことも知られています。
訪問看護は、一人で現場に立つ仕事です。だからこそ、その一人を、組織で支える仕組みが要ります。
訪問先で判断に迷ったときに、すぐ相談できる連絡体制。ヒヤリハットを、気兼ねなく共有できる雰囲気。そして、以前の記事で述べたICTを活用すれば、訪問先で得た情報や、ヒヤリとした出来事を、その場で事業所の全員に共有できます。一人で抱え込ませない。それが、在宅という支えの少ない環境で働く看護師と、その先にいる利用者を、守ることにつながります。
医療安全は、派手な取り組みではありません。日々の小さな「ヒヤリ」を見過ごさずに拾い上げ、仕組みを少しずつ直していく。その地道な積み重ねが、重大な事故を、未然に防ぎます。訪問看護は、一人で、整わない環境で、責任を負う仕事です。だからこそ、個人の注意に頼るのではなく、組織で安全を守る。その姿勢が、利用者の安心と、看護師自身の安心の、両方を支えていくのだと思います。日々のヒヤリハットの一つひとつが、次の事故を防ぐための、大切な手がかりなのです。