看護師の基本給は、12年で5,868円しか上がっていない。
日本看護協会が2025年6月に公表した2024年度の看護職員の賃金に関する実態調査の数字である。病院に勤務する正規雇用・フルタイム・非管理職の看護師について、2012年の同協会調査と比較した結果だ。増加率にして約2.3%。この間の物価上昇を考えれば、実質では下がっている。
同じ期間に、税込の給与総額は29,936円、約8.5%増えている。協会はこれを、ベースアップではなく手当などによる引き上げが行われていると分析した。
この構造は、訪問看護にとって他人事ではない。むしろ訪問看護は、手当で給与を組み立てる方式の最も進んだ場所にいる。
増えたのは手当だった
まず数字を整理する。
基本給は12年で5,868円増、給与総額は29,936円増。差の約2万4千円が、手当の増加分である。基本給が動かないまま、手当を積んで総額を上げてきた。それが日本の看護職の賃金の12年だった。
年齢による上がり方も鈍っている。2012年の調査では、20歳から24歳の基本給を100%としたとき、50歳から54歳で145%になっていた。2024年の調査では、ピークとなる45歳から49歳の29万7,249円と比べても134%にとどまる。しかも40歳から44歳では、前の年代より基本給が減っていた。
年齢を重ねても基本給が上がらない。これは、経験を積むことが賃金に反映されない構造を意味する。
夜勤手当も動いていない。2交代の夜勤手当は、この10年で約1,000円の増加にとどまっている。当メディアで訪問看護師の年収を扱った際、訪問看護と病院の年収差26万円の正体は夜勤手当だと書いた。その夜勤手当自体が、ほとんど上がっていない。
訪問看護は、もとから手当で組み立てている
ここからが訪問看護の話である。
同じ調査は、訪問看護ステーション勤務者の年齢階級別の賃金が、同じ年齢の病院勤務者より低く、年齢の上昇とともに緩やかに上昇すると報告している。緩やかに、という表現が使われている。
訪問看護の給与は、基本給に手当を重ねて作られる。訪問件数に応じたインセンティブ、オンコールの待機手当、緊急訪問の出動手当。当メディアで年収の内訳を扱った際、求人票の月給40万円は一定の件数と回数を見込んだ金額であることが多いと書いた。オンコール待機の手当は1回あたり平均2,233円である。
病院が12年かけて向かった「基本給は据え置き、手当で総額を上げる」という構造に、訪問看護は最初から立っている。求人票で提示される月給の大きさは、多くの場合、基本給の高さではなく手当の見込み額の大きさである。
この構造には利点がある。働いた分が直接収入になる。件数を増やせば増える。オンコールを引き受ければ増える。努力と報酬が短期的に連動する。
問題は、逆方向に動いたときに何が起きるかである。
手当は、働き方を変えた瞬間に消える
基本給と手当の決定的な違いは、減り方にある。
基本給は、働き方が変わっても原則として減らない。手当は減る。訪問件数が落ちれば件数手当が減り、オンコールを外れれば待機手当が消える。
看護師が働き方を変える時期は決まっている。出産、育児、親の介護、自身の体調。日本看護協会の別の分析では、看護師が退職を考える理由の上位に子育て、転居、自分の健康、結婚が並ぶ。当メディアで求人倍率4.54倍を扱った際に紹介した数字である。
子どもが生まれてオンコールを外れる。親の介護で訪問件数を減らす。そのとき、基本給が低く手当の比率が高い給与ほど、収入の下落幅が大きくなる。
40歳から44歳で基本給が減っているという調査結果は、病院の話である。だが訪問看護でも、年齢とともに緩やかにしか上がらないという傾向が確認されている。40代で件数を落とせば、基本給は20代のときとほぼ同じ水準のまま、手当だけが減る。
手当で積み上げた給与は、積み上げを続けられる間しか維持できない。
1.8%の処遇改善は、どこに入るか
2026年度の臨時介護報酬改定で、訪問看護に処遇改善等加算1.8%が設定された。当メディアで試算したとおり、一人あたり月1万円程度が上限である。
問題は、この1万円がどこに入るかだ。
日本看護協会の調査では、ベースアップ評価料を算定する病院において、賃金の引き上げ方法として最も多かったのは毎月支払われる手当による引き上げで67.1%だった。基本給を上げた病院は3割弱にとどまる。
同じことが訪問看護でも起きる可能性が高い。処遇改善の原資を手当として配れば、加算がなくなったときに戻せる。基本給に入れれば戻せない。事業所の経営判断としては、手当のほうが安全である。当メディアで訪問看護の赤字構造を扱ったとおり、38.2%が赤字の業界で、固定費を増やす判断は簡単ではない。
ただ、それを続ける限り、看護師の基本給は上がらない。処遇改善加算を原資とした引き上げが手当で行われ続ければ、12年で5,868円という数字は、次の12年も繰り返される。
ベースアップ評価料を原資とした病院の2年間のベア率は平均3.48%だった。数字としては悪くない。だが、その多くが手当として配られている以上、基本給の水準は動かない。
64%が不満だと答えている
同じ調査で、賃金に満足していると答えた看護職員は約1割、不満と答えたのは64%だった。
不満の内容として多く挙がったのは、業務量、業務内容、そして他業種も含めた同年代・同性の平均的給与額との比較である。
三つ目に注目したい。看護師は、看護師同士ではなく、同年代の他業種と自分の給与を比べている。政府が骨太方針2026で「他職種と遜色のない処遇改善」を掲げたのは、この感覚に対応するものだ。当メディアで2027年度改定の議論を整理した際にも触れた。
そして調査は、賃金満足度が低いほど退職を考えている割合が高いと報告している。
当メディアで離職の構造を論じた際、訪問看護師が辞める理由の共通項を孤独と整理した。賃金は、その孤独とは別の軸で効く。孤独が我慢できても、他業種と比べて低いと感じ続ければ、いずれ職業そのものから離れる判断につながる。
訪問看護ステーションの求人倍率は4.54倍。採用できないことが廃止理由の一位である。賃金に不満を持つ看護師が転職市場に出てこないのであれば、その不満は業界全体の採用難として返ってくる。
経営者に何ができるか
事業所が単独で基本給を大幅に上げるのは難しい。報酬は公定価格であり、収入の上限は制度が決めている。
それでも、できることはある。
一つは、給与の内訳を職員に説明することだ。基本給がいくらで、手当がいくらで、なぜその構成なのか。当メディアで起業した管理者の困難を扱った際、事業所の支出が職員には自分たちの収入の使途として見えるという語りを紹介した。給与の構成が説明されていなければ、同じ不信が生まれる。
もう一つは、処遇改善の原資を手当にするか基本給にするかを、意識的に選ぶことだ。手当にすれば戻せるが、基本給に入れれば職員の生涯賃金に効く。どちらを選んでもよいが、何も考えずに手当にしている事業所は多いはずである。
三つ目は、働き方を変える職員の収入がどこまで落ちるかを把握しておくことだ。オンコールを外れたら月いくら減るのか。件数を2件減らしたらいくらか。それを事前に示せる事業所は、育児や介護の時期に職員を失いにくい。
12年分の数字が示していること
5,868円という数字は、日本の看護職の賃金が何を評価してこなかったかを示している。
経験を積むこと、長く続けること、同じ場所にとどまること。これらは基本給で評価されるものだ。その基本給が12年で2.3%しか動かなかった。評価されてきたのは、夜勤に入ること、件数を回すこと、電話を持つことである。
訪問看護は、その構造を最も純粋な形で持っている業態だと言っていい。働けば増え、働き方を変えれば減る。
2027年度介護報酬改定の議論では、処遇改善が中心の論点の一つになっている。そこで議論されるのが加算率だけであれば、原資の配り方は各事業所に委ねられ、また手当として配られる。基本給を上げる方向に制度が踏み込むかどうか。次の12年が、そこで決まる。