私が初めて一人で利用者さんのお宅を訪問した日のことを、今でもよく覚えています。
玄関のチャイムを押す前に、一つ、大きく息を吸いました。ドアの向こうには、もう先輩はいません。何かあっても、その場で判断するのは、私一人。病院で働いていたころには感じたことのない種類の緊張が、背中を通り抜けていきました。あのとき、それまでの数か月、先輩と一緒に重ねてきた同行訪問がなければ、私はきっと、そのドアを開けられなかったと思います。
いま、訪問看護の世界では、新卒から訪問看護師を育てる動きが広がっています。今日は、その「育て方」について、お話しさせてください。どう育てるかで、新人が現場に根を張れるかどうかが、大きく変わると感じているからです。
かつて、訪問看護師になるには、「まず病院で何年か経験を積んでから」というのが、当たり前の道筋でした。訪問看護は、一人で利用者さんの家に入り、その場で判断を求められる場面が多い仕事です。だから、病院で基礎的な看護の技術や判断力を身につけてから、というのが、理にかなった順番だと考えられてきたのです。
けれど、この常識は、少しずつ変わりつつあります。背景にあるのは、担い手の不足です。以前の記事でもお伝えしたとおり、訪問看護の需要は急激に増えているのに、それを担う看護師は、圧倒的に足りていません。しかも、いる看護師は高齢化しています。経験者を事業所同士で奪い合っているだけでは、担い手の総数は増えない。だからこそ、新卒や未経験の看護師を、訪問看護の現場で一から育てる、という発想への転換が求められています。
実際、専門誌『訪問看護と介護』の2026年5月号でも、病院と訪問看護が連携して行う新卒看護師の教育プログラムが特集されるなど、この「新卒訪問看護師をどう育てるか」というテーマは、いま業界で改めて注目されています。
ただ、ここで一つ、大きな問題があります。育てる仕組みが、追いついていないのです。
訪問看護の現場では、教育の体制が十分に整っていない事業所が、少なくありません。ある事業者向けの解説では、こう指摘されています。「数回同行したら、あとは独り立ち」という事業所も多いのではないか、と。
これは、私自身、他のステーションの話を聞いていても、感じるところです。小規模なステーションでは、日々の訪問をこなすだけで手一杯で、新人にじっくり付き添う余裕がない。結果として、数回だけ先輩について回って、あとは一人で現場に送り出す、ということが起きてしまいます。
でも、明確なステップを踏まないまま、新人を現場に出すことには、大きなリスクがあります。まず、新人が強い不安を抱えます。準備ができていないまま一人にされれば、当然です。その不安は、利用者さんへのケアの質にも影響しかねません。判断に迷い、対応が後手に回る。場合によっては、利用者さんやご家族からのクレームにつながることもあります。
そして何より、早期の離職につながります。せっかく訪問看護を志して入ってきた人が、支えのないまま押し出されて、心が折れてしまう。担い手を増やすために新卒を採ったはずが、育てられずに辞められては、元も子もありません。「育てる」とは、採用することとは、まったく別の営みなのだと思います。
では、どう育てればよいのでしょうか。参考になるのが、各県が作成している、新卒訪問看護師の育成プログラムです。そこには、見学から単独訪問までを、段階的に進めていく設計が示されています。
たとえば、ある県のプログラムでは、同行訪問を、いくつかの段階に分けています。まず、先輩のケアを見て学ぶ「見本型」の同行。次に、先輩に見守られながら新人が実際にケアを行う「伴走型」の同行。そして、先輩が少し離れて見守る「時間差型」の同行。この段階を経て、ようやく単独訪問へと進んでいく、という流れです。
いきなり全部を任せるのではありません。段階ごとに、新人が担う範囲を、少しずつ広げていく。見て学び、支えられながらやってみて、離れて見守られながら自立に近づき、そして一人立ちする。この一段一段が、新人の自信を、丁寧に積み上げていきます。
同行訪問の中身も、細やかに設計されています。ある事業者向けの解説では、5つの教育ステップが紹介されています。最初は、先輩について訪問先を見学する段階。ここで大切なのは、単に処置を眺めることではありません。カルテやFAXから必要な情報をどう読み取るか、訪問の前に何を準備すべきか、家のどこに何が置いてあるか、狭いスペースでどう動けば物品を清潔に扱えるか。病院とは違う、生活の場ならではの動きを、体で覚えていく段階です。
次に、訪問全体ではなく、ケアの中の一部分だけを新人に任せる段階へ。「この利用者さんの、この処置だけお願い」というように、範囲を限定して、実践の機会をつくります。こうして少しずつ、任せる範囲を広げていくのです。
このプロセスの中で、私がとりわけ大切だと思うことが、二つあります。
一つは、情報の読み方を教えることです。病院では、目の前に医師がいて、電子カルテにすべての情報が集約されています。けれど在宅では、限られた記録や、主治医からの指示書、ケアマネジャーからの情報を、自分で読み解いて、その日の訪問に備えなければなりません。この「情報を集めて、訪問をシミュレーションする」という力は、訪問看護に固有のものです。県のプログラムでも、訪問の前に、必ず前回の訪問記録や、自分で作成した手順書を確認し、情報収集とその日の訪問のシミュレーションを行う、というステップが組み込まれています。
もう一つは、振り返りです。同じ県のプログラムでは、同行訪問のたびに、経験したケアを「振り返りシート」に記録することが求められています。何を学び、何に迷い、次はどうするか。一つひとつの訪問を、やりっぱなしにせず、言葉にして振り返る。この積み重ねが、新人の成長を、確かなものにしていきます。
そして、この振り返りは、新人一人でするものではありません。教育を担当する先輩が、その振り返りに付き合い、一緒に考える。組織として、教育担当者の役割を明確にしておくことが大切だと、府県の育成事業でも示されています。
訪問看護には、避けて通れない、もう一つの難しさがあります。24時間対応と、緊急時の訪問です。
夜間や早朝に、利用者さんの容態が急に変わる。その連絡を受けて、駆けつける。この緊急対応は、経験の浅い新人にとって、最も不安の大きい場面の一つです。ある県のプログラムでは、ここにも段階的な設計が用意されています。まず、先輩が緊急当番の日に緊急対応が発生したら、新人も一緒に同行して、その対応を実践から学ぶ。徐々に、時間外の緊急訪問にも同行するようにする。そして、先輩とともに24時間対応を行いながら、状況の判断や、対応の方法を、身につけていく。
いきなり一人で夜間の緊急対応を任せることは、新人にとっても、利用者さんにとっても、危険です。ここでも、支えられながら経験を重ねる、という段階が、欠かせないのだと思います。
ここまで読んで、「理想はわかるけれど、うちにはそんな余裕はない」と感じた方も、いらっしゃるかもしれません。実際、日々の訪問に追われる中で、新人一人にこれだけの手をかけるのは、簡単なことではありません。
けれど、支える仕組みは、事業所の中だけで抱え込む必要はないのです。各都道府県には、新卒や新任の訪問看護師を育成する事業への、補助の仕組みが用意されている場合があります。たとえば大阪府では、新任の訪問看護職員を雇用し、所定の研修プログラムに沿って育成する事業所に対して、教育担当者の人件費や、研修に必要な経費などを補助する事業が行われています。技術研修についても、自らの事業所でのOJTに加えて、都道府県の看護協会や、事業者の団体が実施する、訪問看護師向けの研修を活用することができます。
一つのステーションだけで、すべてを背負う時代ではないのだと思います。県の制度、協会の研修、そして病院との連携。使える仕組みを組み合わせて、地域全体で、新しい担い手を育てていく。そういう発想が、これからは必要になっていくのではないでしょうか。
新人を育てることは、時間も、手間も、かかります。すぐには、事業所の力にはなりません。それでも、育てることをやめてしまえば、訪問看護の担い手は、増えていきません。
私は、あの初めての単独訪問の日の緊張を、忘れることができません。そして、その緊張の向こう側に立てたのは、それまで根気強く同行してくれた先輩たちが、一段一段、私の足場を作ってくれたからだと、心から思っています。見て学び、支えられながらやってみて、見守られながら自立に近づく。その一つひとつのステップが、私を、訪問看護師にしてくれました。
いま、新しく訪問看護の世界に飛び込んでくる人たちに、同じように、確かな足場を用意してあげたい。「数回同行して、あとは独り立ち」ではなく、その人が、自分の意思で、落ち着いて、あのドアを一人で開けられるようになるまで。焦らず、支えていく。それが、かつて支えられた私たちが、次の世代にできる、いちばん大切なことなのだと思うのです。