2026年1月、訪問看護業界にとって過去に例のない出来事が始まった。厚生労働省が健康保険法に基づき、全国の訪問看護ステーションへの一斉調査を開始したのだ。医療機関等への全国一斉調査は、訪問看護の歴史において初めての出来事である。
調査開始から3か月余りが経過した4月時点、業界では様々な動きが進行している。直接の調査対象とならなかったステーションであっても、この調査の流れを無視することはできない。私自身、訪問看護ステーション経営者として10年余り運営してきたが、ここまで業界全体に緊張感が走った時期はなかった。
経営者として、この調査が何を意味し、自分のステーションが何を点検すべきか。冷静に整理したい。
まず、2026年1月から始まった調査の概要を確認する。
調査対象は全国47都道府県で、各都道府県に少なくとも1か所のステーションが指定されている。指定されるステーションの選定基準は以下のとおりである。
レセプト1件あたりの請求額が高額なステーション。年間請求総額が高額なステーション。複数の都道府県で広域展開しているステーション。内部告発があったステーション。ホスピス型住宅併設または隣接型のステーション。精神科訪問看護を主とするステーション。
報道によれば、東証プライム上場の大手「医心館」「PDハウス」、精神科訪問看護最大手「ファーストナース」の拠点も対象に含まれる見通しとなっている。
調査の根拠法令は健康保険法だ。厚生労働省と地方厚生(支)局が直接調査を実施し、本省・厚生局・都道府県の合同調査も数か所で実施される。
調査の結果、不適切な請求が確認された事業者には、診療報酬の返還指導が行われる。悪質なケースでは保険医療機関の指定取消も視野に入る。
過去のレセプト請求を遡って確認することになる。具体的な遡及期間は明示されていないが、過去5年程度の請求実績が確認対象となる可能性が高い。
なぜここまで大規模な調査に踏み切ったのか、背景を整理しておきたい。
2025年2月、パーキンソン病専門の有料老人ホームを各地で運営する東証プライム上場企業「サンウェルズ」が、約28億円超の診療報酬不正請求を認めた。
調査委員会の報告書によれば、不正の手口は以下のようなものだった。
入居者が眠っているのを看護師が数秒から数分で確認した場合も、約30分間訪問したように記録。複数人で訪問していないにもかかわらず、複数人訪問加算を請求。実態のない訪問を計画書に記載。
これらの手法で高い利益率を上げ、ここ数年で急成長していた構造だ。
末期がん患者向けホスピス最大手の「医心館」でも、全国約120か所の拠点で同様の疑惑が報じられた。共同通信による独自取材で明らかになった内容で、業界に大きな衝撃が走った。
現場の医師493名を対象にした調査では、約4割が「虚偽の病名や過剰な訪問回数を、ホスピス型住宅から要求された経験がある」と回答した。
この数字は、不正が一部の悪徳事業者だけの問題ではなく、業界の構造的問題であることを示している。
中央社会保険医療協議会の資料によれば、医療保険の訪問看護療養費は以下のように急増している。
平成20年(2008年)
令和5年(2023年)
15年間で約9倍以上に膨らんだ医療費の中に、不適切な請求が含まれていた可能性が高い。これが厚生労働省の調査着手の直接的な動機となった。
調査開始から4月までの3か月余り、何が起きているのかを整理する。
1月時点では、まず資料の提出依頼から始まった。対象ステーションに対し、過去のレセプト請求書、訪問看護記録、看護計画書、訪問看護指示書、ご家族との契約書類等の提出が求められた。
書面審査の段階で、明らかな矛盾がある事業者には、より詳細な現地調査が実施されることになる。
2月から3月にかけて、現地調査が本格化した。地方厚生局の担当者がステーションに直接赴き、以下の確認を行っている。
スタッフへのヒアリング(看護師、管理者、事務員)。訪問看護記録と利用者の実態の照合。ご家族への聞き取り(同意の上で)。電子カルテのアクセスログ確認。タイムカードと訪問記録の整合性確認。
これらは数時間から数日にわたることがあり、対象事業者には大きな業務負担となっている。
4月時点では、初期調査で問題が確認された事業者への追加調査と、返還指導の準備が進んでいる。一部報道では、特定事業者への返還指導金額が具体化しているとされる。
並行して、調査対象を当初予定の47か所から拡大する動きも報じられている。問題の規模が想定以上だった可能性がある。
これまでの報道と業界関係者からの情報を総合すると、調査の焦点となっている不適切行為は以下の5つに集約される。
数秒から数分の訪問を「30分以上の訪問」と記録する行為。これは最も明確な不正行為で、調査でも最初に指摘される項目となる。
訪問看護記録の内容と訪問時間の整合性、利用者の状態と訪問内容の合理性、看護計画と実施内容の対応関係などが厳しくチェックされる。
実際には1名で訪問していたにもかかわらず、複数名で訪問したと記録して加算を算定する行為。
調査では、訪問時のタイムカード、車両運行記録、GPS記録、複数名訪問の医学的必要性の根拠などが確認される。
医師に対して、医学的必要性の乏しい状態で訪問看護指示書の発行を依頼する行為。「特別訪問看護指示書」を不必要に発行依頼するケースも問題視されている。
医師の側でも、過剰な指示書発行への関与が問われる構造となっている。
末期がん、難病、精神疾患等を理由に医療保険による訪問看護を算定する際、該当しない利用者にも適用する行為。
医療保険による訪問看護は介護保険より単価が高く、頻度の上限もないため、別表7・8該当の濫用は経営上の誘惑が大きい構造になっている。
ホスピス型住宅から訪問看護ステーションへの利用者紹介に対して、不適切な対価(リベート、業務委託費名目の支払い等)が支払われている疑惑。
この点は、訪問看護ステーション単独の問題ではなく、ホスピス型住宅とのビジネスモデル全体に関わる構造的問題となる。
ここで重要なのは、不正を行ってこなかった大半のステーションへの影響である。
直接の調査対象とならなかったステーションでも、以下の影響が予想される。
地域住民・利用者からの不信感(「訪問看護=不正」というイメージの一部広がり)。連携医療機関からの慎重な姿勢。求職者の業界への警戒感。メディア報道による業界全体への悪印象。
2026年6月施行の診療報酬改定では、不正の温床となっていた領域への規制が強化される。
包括型訪問看護療養費の新設(短時間多頻度訪問の収益機会を構造的に削減)。精神科訪問看護の算定要件厳格化。指導監査要綱の改定による監査機会の拡大。広域展開ステーションへの厳格な指導。
これらは、適正運営してきた中小ステーションには相対的に有利に働く制度変更となる。
調査の対象でなくても、すべてのステーション経営者は自己点検を実施すべきタイミングだ。具体的に確認すべき項目を整理する。
過去6か月間の訪問看護記録について、以下を確認する。
訪問時間の記載と実態の整合性。看護計画と実施内容の対応関係。バイタルサイン等の客観的記録の有無。利用者の状態変化に応じた記載の充実度。重複訪問・連続訪問の医学的必要性の根拠。
問題のある記録があれば、即座に是正する。「監査が来てから対応する」では遅い。
各種加算の算定根拠を改めて確認する。
複数名訪問加算: 実態と医学的必要性の文書化。緊急訪問看護加算: 緊急性の判断記録。長時間訪問看護加算: 必要時間の合理的根拠。特別管理加算: 該当状態の継続的確認。
加算の算定漏れも問題だが、不適切な算定こそ重大な問題となる。
医療保険による訪問看護を算定している利用者について、別表第7・第8への該当を改めて確認する。
主治医による疾病コードの確認。利用者の状態と該当疾病の合致。継続的に該当条件を満たしているかの定期評価。
該当しなくなった利用者については、適切に介護保険への切り替えを行う。
利用者紹介元との関係について、以下を確認する。
紹介に対する金銭的対価の有無(リベート禁止)。業務委託契約の妥当性。営業活動の透明性。連携先選定基準の合理性。
不透明な関係があれば、即座に解消する。
経営者として、スタッフに対して以下を改めて伝える。
適正な訪問看護記録の記載方法。加算算定の正しい運用。不適切な指示への対応(医師から虚偽記載を求められた場合等)。報告窓口の周知(内部通報制度)。
スタッフが安心して適正運営に従事できる環境を整えることが、最も重要な経営者の役割となる。
この調査は、訪問看護業界に大きな構造変化をもたらすと予想される。
2026年中に表面化する変化として、以下が予想される。
不適切事業者の撤退または事業縮小。問題があったホスピス型住宅併設ステーションの再編。ベンチャーキャピタル投資への影響(訪問看護M&A市場の冷え込み)。広域展開ステーションへの厳格な監視。
2027年から2028年にかけては、業界の質的変化が進むと考えられる。
「真面目な訪問看護」の再評価。利用者・家族からの信頼回復。適正運営事業者への利用者集中。中小ステーションの経営優位性向上。
2029年以降の長期的展望としては、以下のような姿が見えてくる。
医療保険による訪問看護費用の伸び率鈍化。訪問看護の質的指標の重視。ICT・DXを活用した監査の常態化。事業者の経営モデル転換(量から質へ)。
最後に、私自身が経営者として持っている視点を共有したい。
短期的に高い収益を上げる不正運営は、必ず破綻する。サンウェルズの事例は、東証プライム上場企業ですら不正によって信頼を失えば一気に転落することを示した。
訪問看護は人の生活と命に関わる仕事だ。短期の利益のために不正に手を染めることは、利用者・家族・スタッフ、そして自分自身を裏切る行為に他ならない。
逆説的だが、適正運営こそが長期的な経営安定をもたらす。
利用者・家族からの信頼。連携医療機関との安定した関係。スタッフの定着。地域での評判。
これらは数字に表れにくいが、経営の根幹を支える資産となる。
私たち経営者には、業界全体の信頼回復に貢献する責任がある。自分のステーションを適正に運営することが、業界全体の質を高める一助となる。
「訪問看護は儲かるビジネスだ」という見方を払拭し、「訪問看護は人を支える尊い仕事だ」という認識を、社会に取り戻していきたい。
2026年1月から始まった訪問看護全国一斉調査は、業界の透明性と適正性を高める重要な動きとなっている。直接の調査対象でなくても、すべての経営者が自己点検と運営の見直しを進めるべきタイミングである。
不正の温床となっていた構造に光が当たることで、適正運営してきた事業者が正当に評価される環境が整いつつある。短期的には業界全体に緊張感が走るが、中長期的には訪問看護の社会的地位を高める転換点となる可能性が高い。
経営者として、この変革期を「規制強化」として消極的に受け止めるのではなく、「業界の質を高める機会」として能動的に活用していきたい。利用者・家族・スタッフ、そして社会全体から信頼される訪問看護を、これからも目指していく必要がある。
調査の進捗と今後の制度変更について、HokanPressでは引き続き継続的に発信していく。