マイナビが2026年6月1日に公表した「看護師白書2026年版」は、訪問看護業界に深刻な警鐘を鳴らす内容でした。看護師の66.8%が「給与は仕事に見合わない」と回答、仕事に満足している看護師はわずか37.0%、適正な給与水準として「今より30%以上の引き上げ」を求める看護師が最多——。
訪問看護ステーション経営者として10年余り運営してきた立場から、この数字は単なる統計ではなく、自ステーションの現場で日々感じている現実そのものです。スタッフが辞めていく、新規採用がうまくいかない、残ったスタッフの負担が増える、また辞める——この離職連鎖は、日本中の訪問看護ステーションで進行中の構造的な問題です。
2026年6月施行の改定で処遇改善加算1.8%が新設されました。しかし、看護師が求める「30%以上の引き上げ」とは決定的な隔たりがあります。経営者として、私たちはこの現実をどう受け止め、どう対応すべきなのか。本記事では、訪問看護現場で起きている離職連鎖の構造と、経営者が直視すべき現実を、率直にお伝えします。
まず、マイナビ調査が示した衝撃的な数字を確認します。
2026年6月1日にメディカルサポネットが公表した調査結果は以下の通りです。
主要な結果:
これは、看護師業界全体の構造的な不満を示す数字です。
訪問看護師に特化したデータも、状況の深刻さを示しています。
日本看護協会の公開情報によれば、看護師の基本給は2012年から2024年までの12年間で、わずか約6,000円の増加にとどまっています。月平均500円の上昇率で、物価上昇を考えれば実質賃金は下落している計算です。
訪問看護師は、病棟看護師と比較しても以下のような独特の負担を抱えています。
訪問看護師特有の負担:
これらの負担に対して、給与水準は病棟看護師と大きく差がないのが実情です。
看護師が求める「今より30%以上の引き上げ」という数字は、業界にとって重い意味を持ちます。
具体例:
これは、業界全体の給与水準を構造的に引き上げる必要性を示しています。一方、2026年改定の処遇改善加算1.8%は、利用者100名規模のステーションで月数万円〜10万円程度の加算原資にとどまります。
看護師が求める水準と、現実に提供できる原資の間には、決定的な乖離があります。
経営者として10年余り運営してきた中で、訪問看護現場で起きている離職連鎖の構造を整理します。
私が現場で繰り返し見てきた離職連鎖は、以下のような構造です。
第一段階: ベテラン看護師の退職
経営の中核を担うベテラン看護師1名が、給与不満や業務負担を理由に退職を申し出る。これがすべての始まりとなります。
第二段階: 残ったスタッフへの負担集中
ベテランが抜けた穴を埋めるため、残ったスタッフの業務量が増加。オンコール当番の頻度が上がり、訪問件数も増える。
第三段階: 中堅スタッフの疲弊
業務負担増を3〜6か月続けた中堅スタッフが、心身ともに疲弊。「私もこの状況では続けられない」と感じ始める。
第四段階: 2人目の退職
中堅スタッフ1名が、ベテランに続いて退職を申し出る。これにより、機能強化型の要件維持や24時間対応体制の維持が脅かされ始める。
第五段階: 経営判断の歪み
経営者は新規採用に追われるが、即戦力の採用は困難。やむを得ず未経験者を採用したり、無理な業務シフトを組んだりする判断を強いられる。
第六段階: 3人目の退職
新人教育の負担が中堅スタッフに集中。「教育に時間が取られて、自分の業務ができない」「経営者は数字しか見ていない」という不満が広がり、3人目が退職を申し出る。
この連鎖は、いったん始まると止めることが極めて難しい構造です。
10年余りの経験から、離職連鎖が起きやすいステーションには共通の特徴があります。
特徴1: 経営者がスタッフの声を聞いていない
数字や経営の話ばかりで、スタッフ一人ひとりの状況に目が届いていない。1on1ミーティングが実施されていない、または形式的になっている。
特徴2: 給与水準が地域相場より低い
地域の同業他社と比較して、給与水準が明らかに低い。にもかかわらず、業務負担は同等またはそれ以上。
特徴3: オンコール負担が集中している
特定のスタッフにオンコール当番が集中。月10回以上のオンコールを抱えるスタッフがいる。
特徴4: 教育体制が整っていない
新人が孤立して業務を担うことが多い。同行訪問期間が短すぎる、または長すぎる。
特徴5: キャリアパスが見えない
5年後・10年後の自分の姿が見えない。職位・給与の体系が不透明。
特徴6: ハラスメントの放置
利用者・家族からのハラスメントへの組織的対応が不十分。スタッフが個人で抱え込む構造。
これらの特徴を複数持つステーションでは、離職連鎖のリスクが極めて高いです。
訪問看護師1名の離職は、経営に深刻なインパクトを与えます。
直接的なコスト:
間接的なコスト:
訪問看護師1名の採用・教育には、年収の20〜30%相当のコストがかかると言われています。年収500万円の看護師であれば、100万円〜150万円規模です。
これが連鎖的に発生すれば、経営は急速に悪化します。
経営者として向き合うべきは、「なぜ離職連鎖が止まらないのか」という根本的な問いです。
訪問看護の収益構造には、給与改善の構造的な限界があります。
収益構造の現実:
経営者として「給与を上げたい」と願っても、原資の構造的な制約があります。
訪問看護師の絶対数が、需要に対して不足しています。
人材不足の構造:
「いくら採用しても追いつかない」という構造が、業界全体で発生しています。
訪問看護師の業務負担は、年々重くなる方向にあります。
業務負担増の要因:
「給与は据え置きで業務は重くなる」という構造が、看護師のモチベーション低下を生んでいます。
2026年改定の処遇改善加算で、訪問介護員への評価が大幅に強化されました。
格差縮小の構造:
「看護師は介護員と比較して、専門性に見合った評価を受けているのか」という疑問が、看護師の中で広がっています。
看護師業界全体への失望感も、離職連鎖の背景にあります。
失望感の要因:
「業界全体が変わる気がしない」という諦めが、看護師の離職決断を後押しする構造があります。
経営者として、目を背けずに直視すべき現実を整理します。
最初の現実は、加算1.8%だけでは離職連鎖を止められないことです。
利用者100名規模のステーションで考えると、加算1.8%による追加収益は月数万円〜10万円程度。これを全スタッフに分配しても、1人あたりの月額増は数千円〜1万円程度です。
看護師が求めている「30%以上の引き上げ」とは、桁が違う規模です。
加算だけに頼らない、複合的な処遇改善戦略が必要です。
スタッフは、経営者がスタッフを「コストとして見ている」のか「投資対象として見ている」のかを、直感的に見抜いています。
コストとして見ている経営者の特徴:
投資対象として見ている経営者の特徴:
スタッフは、経営者の言葉ではなく行動を見ています。
かつての訪問看護ステーション経営では、「うちは家族のような関係」「アットホームな職場」というアピールが通用しました。しかし、それは過去の話です。
現代のスタッフが求めるもの:
「家族のような関係」という曖昧なメッセージは、むしろ「経営の不透明さ」「処遇の悪さ」を隠す言い訳と受け取られる時代になっています。
訪問看護師の採用市場は、今後さらに激化します。
激化の要因:
「いつか採用できるだろう」という楽観論は、現実から遠ざかっています。
現実5は最も重要です。業界全体で二極化が加速しています。
勝ち組ステーション:
負け組ステーション:
自ステーションがどちらに属するかは、これからの経営判断で決まります。
経営者として、離職連鎖を止めるために今すぐ取るべき行動を整理します。
まず、感覚ではなく数字で離職率を把握します。
把握すべき指標:
数字で見えてくる現実が、経営判断の出発点となります。
経営者一人で考えるのではなく、スタッフの本音を聞く仕組みを作ります。
仕組みの例:
形式的な実施ではなく、本音が出る環境を作ることが重要です。
自ステーションの給与水準を、客観的に評価します。
評価の視点:
「うちは適正」という主観ではなく、データに基づく評価が必要です。
加算による収益増だけに頼らず、他の処遇改善策も実行します。
実行可能な施策:
経営者の知恵と覚悟次第で、加算以外の処遇改善も可能です。
経営者自身が現場業務に追われていては、本質的な改革ができません。
役割の再設計:
経営者が経営者としての本来業務に専念できる体制が、改革の前提です。
業務効率化と質向上のための ICT・DX 投資を、継続的に実施します。
投資対象:
短期的にはコストですが、中長期的には人件費削減と質向上の両面で回収可能です。
最後の現実として、撤退判断の準備も必要です。
判断の指標:
撤退は失敗ではなく、利用者・スタッフへの責任を果たすための正当な経営判断です。
経営者の立場を離れて、訪問看護師個人にもメッセージを送らせてください。
訪問看護師として、自分の市場価値を客観的に把握することが重要です。
市場価値の指標:
これらに基づいた給与水準を、転職市場で確認することが、現職での交渉力にもつながります。
「いつかは改善されるはず」と我慢を続けるよりも、行動を起こすことが重要な場面があります。
行動の選択肢:
「我慢」が必ずしも美徳ではない時代になっています。
最終的には、自分の心と体を守る選択を優先してください。
優先すべきこと:
「ステーションのため」「利用者のため」と自己犠牲を続けても、結局は自分が壊れてしまえば誰も支えられません。
最後に、業界全体の改革にも、看護師個人として参加していただきたいと思います。
参加の方法:
業界の未来は、看護師一人ひとりの選択と行動の積み重ねで作られます。
ここまで厳しい現実を整理してきましたが、希望もあります。
2026年改定で、業界の構造改革が始まりました。
改革の方向性:
これらが連動して、業界全体の質的向上が進む方向性は明確です。
2027年は通常改定の年です。
期待される動き:
業界団体の継続的な要望活動が、2027年改定での処遇改善につながる可能性があります。
業界全体の改革を待つだけでなく、個別ステーションでの取り組みが業界を変えていきます。
取り組みの方向性:
一つひとつのステーションの取り組みが、業界全体の質を底上げします。
最後に、訪問看護という仕事そのものの価値を改めて確認したいと思います。
訪問看護の価値:
この尊い仕事を、適正に評価される業界として確立していくことが、私たちすべての責務です。
マイナビ「看護師白書2026年版」が示す66.8%の給与不満、37.0%の低い仕事満足度、「30%以上の引き上げ」を求める看護師の現実は、訪問看護業界の構造的な問題を浮き彫りにしています。
これらの数字は自ステーションの現場で日々感じている現実そのものです。スタッフが辞めていく、新規採用がうまくいかない、残ったスタッフの負担が増える、また辞める——この離職連鎖を止めることは、経営の最重要課題です。
2026年改定の処遇改善加算1.8%だけでは、看護師が求める「30%以上の引き上げ」とは決定的な隔たりがあります。経営者として、加算以外の処遇改善策、業務効率化、ICT・DX投資、自身の役割再設計、そして時には撤退判断まで、複合的な経営判断が求められます。
スタッフは経営者の本音を見抜いています。「家族のような関係」という曖昧なメッセージはもう通用しません。給与を上げる覚悟、スタッフを投資対象として見る姿勢、経営者自身も身を切る覚悟——これらが、離職連鎖を止める出発点となります。
業界全体としては、2026年改定で構造改革が始まり、2027年改定への期待も高まっています。個別ステーションの取り組みが、業界全体の質的向上につながっていく流れの中で、自ステーションをどう位置づけるかが、これからの経営者の責務です。
訪問看護という仕事は、深い社会的価値を持つ尊い仕事です。この仕事に従事する看護師が、適正に評価される業界として確立されていくこと——その実現に向けて、経営者として地道な取り組みを続けていきたいと考えます。
HokanPressでは、訪問看護経営の本質的なテーマについて、引き続き率直な発信を続けてまいります。