訪問看護は、輸出もしなければ輸入もしません。為替相場を見ながら仕事をしている看護師は、まずいないでしょう。
それでも、世界情勢はこの業界に届いています。しかも、他の産業とは違う形で届きます。原材料が上がったから価格に転嫁する、という選択肢が訪問看護にはないからです。報酬は公定価格であり、事業所が単価を決められません。
2026年9月時点の外部環境を確認したうえで、それが訪問看護のどこに現れるかを整理します。
為替から見ます。ドル円は9月に入って153円台後半から156円台で推移しています。8月末には一時159円90銭近辺まで上昇しました。日銀の早期利上げ観測による円の底堅さと、中東情勢および原油高に伴うドルの底堅さが拮抗している状態です。
中東では米国とイランの攻撃の応酬が激化しており、原油は高止まりが続くとの見方が強まっています。原油価格が上がれば日本の輸入額が増え、貿易赤字が拡大し、輸入企業のドル買い需要が増えて円安圧力になる。円安が進めば輸入価格がさらに上がる。この循環が、いま動いています。
上がっているのは原油だけではありません。小麦、大豆、トウモロコシ、銅、アルミニウムといった商品価格も上昇しています。石油化学製品の原料であるナフサは、2026年5月時点で1トンあたり884ドル、前年比で約65%高い水準にありました。
ここまでが、ニュースで流れている話です。ここから先が、訪問看護の話になります。
ナフサの価格は、医療用プラスチック製品の価格に直結します。手袋、輸液セット、カテーテル、注射器、ビニール袋。訪問看護が毎日使うものの多くが石油由来です。
医療機器の分野では、物価高騰と円安によって償還価格が購入価格を下回る逆ザヤの問題が拡大しており、中医協でも材料価格制度の課題として議論されてきました。病院や診療所で起きていることは、訪問看護でも同じです。ただし訪問看護の場合、衛生材料の多くは診療報酬の中に包括されており、使った分を別途請求できません。
当メディアで訪問看護の移動手段を扱った際、燃料費の上昇が月商に占める割合は0.13%程度で誤差の範囲だと試算しました。衛生材料も一つひとつは小さな支出です。しかし手袋、アルコール、ガーゼ、被覆材、消毒液と積み上がれば、年間では無視できない金額になります。
しかも、この費用は訪問件数に比例して増えます。売上を増やそうとすれば材料費も増える。単価が固定されているなかで材料費が上がれば、1件あたりの利益は確実に薄くなります。
より直接的なのが、医薬品の供給不安です。
2026年9月10日時点で、限定出荷となっている医薬品は971品目、供給停止は910品目にのぼります。合計で1,881品目。この状態は数年にわたって続いており、解消の見通しは立っていません。
訪問看護の利用者は、複数の薬を継続して服用しています。当メディアで残薬の確認が運営基準に明記されたことを扱った際、薬カレンダーの残り方から生活の変化を読むことを書きました。その前提は、処方された薬が手に入ることです。
薬局から、いつもの薬が入らないと連絡が来る。代替品に変わり、錠剤の大きさや色が変わる。一包化の中身が変わる。高齢の利用者にとって、これは相当な混乱です。見た目が変わった薬を飲まなくなる方もいます。
訪問看護師は、この変更を訪問時に把握し、飲めているかを確認し、飲めていなければ理由を探る役割を担っています。供給不安が長引くほど、この確認作業は増えます。2026年度改定で服薬状況の把握が運営基準に明記され、薬局への情報提供が望ましいとされたことは、こうした状況とも無関係ではないでしょう。
原油高は、ガソリン価格として現れます。
2026年8月末時点のレギュラーガソリン全国平均は170.0円でしたが、これは政府の燃料油価格定額引下げ制度による基準価格であり、支給単価は32.5円です。補助がなければ200円を超える水準にあります。中東情勢が長引けば、この補助の継続可否が論点になります。
当メディアの試算では、燃料費の上昇が訪問看護の収支に与える影響は限定的でした。ただし補助が終了した場合の影響は、その試算より大きくなります。
事業所の光熱費も上がっています。事務所の電気代、冬場の暖房費。訪問介護の団体が9月10日の介護給付費分科会で示したアンケートでは、令和7年度の収支について約6割の事業所が赤字と回答し、物価高騰と賃金上昇が続いていることが指摘されました。訪問看護も、令和7年度の介護事業経営概況調査で38.2%が赤字です。
四つ目が、最も長期的な影響を持つ経路です。
日本の介護分野は、外国人材の受け入れを拡大してきました。2025年4月からは、特定技能および技能実習の外国人が訪問介護に従事できるようになっています。介護職員初任者研修の修了、1年以上の実務経験、日本語でのコミュニケーション能力といった要件が課されていますが、居宅でのサービス提供に外国人材が入る道が開きました。
訪問看護は、この対象ではありません。看護師として働くには日本の看護師免許が必要であり、外国人が取得するには高い壁があります。つまり訪問看護は、日本人看護師の中だけで人材を確保しなければならない業態です。
ここに円安が効いてきます。日本で働く魅力は、円建ての賃金が母国通貨でいくらになるかで決まります。153円の円安は、アジア各国から見た日本の賃金水準を押し下げます。介護分野では、日本が選ばれにくくなっているという指摘が以前から出ています。
訪問看護は外国人材に依存していないため、この変化を直接受けるわけではありません。ただ、介護職の確保が難しくなれば、在宅の生活を支える体制全体が細ります。訪問看護だけが人を確保できても、ヘルパーが来なければ在宅療養は成り立ちません。
当メディアで求人倍率4.54倍を扱った際、訪問看護の求人倍率が全施設種別で最も高いことを書きました。この数字は国内の話ですが、その背景には、日本全体が労働力を確保しにくくなっている構造があります。
ここまでの四つに共通するのは、コストが上がっても価格に転嫁できないという一点です。
一般の企業であれば、原材料が上がれば製品価格を上げます。訪問看護はできません。訪問看護基本療養費も管理療養費も、国が決めた金額です。物価が上がっても、改定のタイミングまで単価は動きません。
2026年度の臨時改定で訪問看護に処遇改善等加算1.8%が設定されましたが、当メディアの試算では一人あたり月1万円程度が上限でした。物価上昇に対して、この幅で足りるかどうかは別の問題です。
介護報酬は3年ごと、診療報酬は2年ごとの改定です。その間に世界情勢が動いても、報酬は動きません。2026年6月の改定から次の介護報酬改定は2027年4月、診療報酬改定は2028年4月です。今の外部環境が続くなら、事業所はその期間を現在の単価で乗り切ることになります。
制度を変えられない以上、できることは限られます。それでも三つあります。
第一に、材料費の可視化です。手袋、消毒液、被覆材が月にいくらかかっているかを把握している事業所は多くありません。訪問1件あたりの材料費を出しておけば、価格が動いたときに影響額を即座に計算できます。当メディアで移動手段の経済性を扱った際にも書きましたが、感覚ではなく数字で把握することが最初の一歩です。
第二に、医薬品の供給状況を情報として持つことです。限定出荷や供給停止の情報は公開されています。担当している利用者の主要な薬が影響を受けているかを把握していれば、薬局からの連絡を待つのではなく、こちらから確認できます。
第三に、報酬改定の議論に現場の実態を届けることです。2027年度介護報酬改定に向けた関係団体の意見交換会が9月10日から始まりました。訪問看護の番は第2回か第3回になります。訪問介護の団体は、アンケートの数字を持って基本報酬の引き上げを求めました。訪問看護の団体が何を持っていくかは、事業所が日頃どんな数字を記録しているかに左右されます。
原油価格が上がってから衛生材料の納入価格が上がるまでには、数か月の時間差があります。為替が動いてから輸入医薬品の供給に影響が出るまでにも、時間がかかります。
だから、ニュースで中東情勢を見たその日に何かが変わるわけではありません。変わるのは半年後、一年後です。そして報酬が動くのは、さらにその後になります。
訪問看護は、世界で最も影響を受けにくい業種の一つに見えて、実際には最も遅く、最も長く影響を受ける業種です。値上げできないということは、外部環境の変化を事業所が丸ごと吸収するということだからです。
今の外部環境が来年も続いたとき、自事業所の収支がどうなるか。その試算を持っている事業所と、持っていない事業所の差は、2027年度改定の後に開きます。